蓮池通信
子ども×神奈川県立美術館・鎌倉館

鎌倉館「美術館はぼくらの宝箱」に参画
中学2年生(2007年度6年1組)

2008年の「夏の美術館 あの色/あの音/あの光」で残した子どもたちの言葉や作品、絵本などの足跡が予想以上に好評だったことを受け、2009年も子どもたちの作品をみる視点をさらに取り入れた展覧会「美術館はぼくらの宝箱」(2009年6月6日~9月6日)に参画することになった。

近代美術館での生活も早4年目に突入した中学2年生は、展覧会に向けて学芸員と春休みからワークショップを行った。

2009年3月~4月 「鑑賞ワークショップ」

春休みに行った最初のワークショップでは、葉山館で展示されていた松本竣介の「立てる像」を鑑賞した。この作品を選んだ理由は、まず中学生になった子どもたちが小学生の頃よりも自画像(描かれている人の背景)に興味を持っていること、そして今現在の子どもたちが同じ年頃の少年が描かれた作品を鏡として自分自身をみつめる機会になるのではないかと考えたからである。

作品からひろう言葉は明らかに5年生の頃とは異なっていた。描かれているものをみつけ、そこから様々な物語を自由に空想し楽しむ姿はすでになく、子どもたちの視点は明らかに描かれている少年の表情に向いていた。少年は何を考え、どんな人生を送ったのか。今の自分自身と重ねる子もいた。ここで初めて試みたことは、学芸員の作品についての解説を入れたことである。美術館とは3年間交流を続けてきたが、これまで学芸員に作品の解説をしてもらったことは一度もなかった。答えのない自由な鑑賞を十分経験していない子どもにとって、「知識」は自分なりの見方を深めるにあたり障害になることもあるからである。 すなわち自分を起点に仲間の見方に共感し、自分の見方がしっかりできた上で「知識」を得ると、子どもは「否定」された気もちにならず、「納得」しながら見方を広げ深めていくようになるのである。実際、子どもたちは学芸員の解説を聞くことで「納得」しながら自分の見方をさらに深めていた。

二度目のワークショップは後日、小学校で5年生の頃から2年間行った授業と同じ設定(プロジェクターを使った鑑賞)で齋藤義重の「鬼」(抽象画)を鑑賞した。この作品については、子どもたちが5年生の頃もっとも見方を広げることができなかった作品の1つであったこと、そしてその作品を中学2年生になった今、再度鑑賞することで自分自身の変容を感じることができるのではないかと考えた。ワークショップでは5年生の頃もっとも多かった「なんでこれが鬼なの?」「よくわからないなぁ」というつぶやきが初発の感想で出たものの、自分にとっての「鬼」について考えを深める中で、齋藤義重との接点を少しずつみつけていった。

これらの2回のワークショップでは、子どもたちは3年間に渡る美術館での鑑賞をとおして変容していることが実感できた。しかしこの実感、つまり美術館での鑑賞によって子どもたちにもたらされる変容、感性の育ちなどの曖昧な部分を来館者にいかに伝えるべきか学芸員と共に悩んだ。その結果出てきた答えの一つが「映像」だった。

2009年5月10日・17日 「ドキュメンタリー映画撮影」

今回の展覧会の趣旨に共感してくれたのは、子どもたちが3年前初めて葉山館に出かけた時に引率経験のある森内康博監督(第9回インディーズムービー・フェスティバルTANPEN部門にてグランプリ)だった。森内監督は子どもたちの3年間の活動を資料やWebサイト「蓮池通信」などでふりかえり、たった2日間という限られた撮影日程の中で子どもたちの成長がより表出する内容を企画し、撮影を行った。

■ドキュメンタリー①「鎌倉の立てる像たち」

森内監督の企画

アートカードを使って再度「立てる像」を鑑賞する。案内人が中学生に、自分の生活空間の中で立ってみたい場所はどこか、自分が「立てる像」の彼のように立ちたい場所はどこか、と質問する。中学生は各自場所を提案し、どうしてその場所に立ちたいかを語り合う。話し合いをして場所をしぼる。歩いて行ける鎌倉市内。しぼった場所に皆で歩いて行き、その場所に場所提案者が「立てる像」のように立つ。「立てる像」の構図で撮影する。他の中学生も立ってみる。実際に立ってみての感想を言う。今の自分をみつめその一連をドキュメンタリータッチで撮影する。

高松のねらい

「立てる像」を鑑賞し、「立てる像」の少年のように実際に立ち自分を表現することでさらに「立てる像」の見方を深める。

■ドキュメンタリー②「拝啓鬼様」

森内監督の企画

斎藤義重の「鬼」という作品を見た中学生たちは5年生の頃これを鬼には見えないと言っていた。しかし中学生になった今、じっくりみていると鬼らしきものがみえてきた。鬼の姿とは何なのか。鬼とは形になるのか。鬼は一体何者だ。中学生各々の思い描く鬼に対し、手紙を綴る。その一連をドキュメンタリータッチで撮影する。

高松のねらい

「鬼」を鑑賞し、自分にとっての鬼に手紙を書くことで今の自分をみつめ、作者との接点を探る。

■短編映画「池の中のアーティスト」

森内監督の企画

2008年8月に開催された鎌倉館のワークショップ「小説家・島田雅彦さんと蓮池を書く」に参加した子どもが書いた美術館を舞台につくった物語「池の中のアーティスト」を脚本化し、短編映画を撮影する。

高松のねらい

・映画づくりをとおして子どもたちにとってさらに美術館を特別な場所にする。
・撮影からアフレコ、裏方の仕事まで含めた映画製作に参加することで“クリエイティブ”という言葉を体感する。

撮影を終えて・・・

今回映画を撮影するにあたり、私自身は第三者の立場で映画スタッフと子どもたちの活動を見守ることにした。それは、子どもたちが初めて出会う大人に対して、2日間という限られた日程の中でどれだけ作品をとおして自分自身のことを素直に語れるかをみたかったからである。
実際の撮影は順調に進んだ。2日間の強行日程は移動も含めてかなり体力的にも厳しいものであったが、どのような状況においても作品を鑑賞する際は集中力を高めていた。もちろん自分に正直に生きる映画スタッフの人柄が子どもたちの感覚をほぐしたことは紛れもない事実であった。しかし、子どもから紡ぎ出される言葉の一つひとつに、5年生の頃から美術館で繰り返し鑑賞を行うことにより入った「(作品をとおして)自分と向き合うスイッチ」をいまだにしっかり持ち続けていることが確認できた。

鑑賞教育における子どもの変容や感性の育ちについては点数化できず、図工・美術教育に携わる者以外にとっては曖昧である。その曖昧さを言葉で伝えようとすればするほど核心から離れてしまうこともある。したがって、今回撮影した映画をとおして子どもたちの変容や感性の育ちが言葉を越えたところでより多くの人に伝わることを願っている。(高松)

2009年6月6日~9月6日 「美術館はぼくらの宝箱」開催

6月6日より神奈川県立近代美術館鎌倉別館にて「美術館はぼくらの宝箱」が始まった。館内では森内監督と撮影した2本のドキュメンタリーと短編映画が上映され、また展示作品のまわりにはこの数年間に子どもたちが紡ぎ出してきた言葉がたくさん掲示され、鑑賞者に新たな視点をもたらしていた。さらに本サイト「蓮池通信」をパソコンで閲覧できるなどこの3年間の足跡が美術館にしっかり刻まれた。

思えば3年前はここまで活動が広がることを全く想像していなかった。学習指導要領を意識して「鑑賞」に着目したわけではなく、目の前の子どもの実態と自分自身の必要感から一つひとつ活動を積み重ね、そこに近代美術館の学芸員の方向性が一致し、さらに活動が広がる結果をもたらした。ここに常にあったのは、教師が美術館で様々な実践を試み、その試みを学芸員が面白がる、そして学芸員の試みにも教師が面白がる、という関係である。「学校と美術館の連携」は「教師と学芸員の互いに面白がる関係性」があって初めて成立するものであろう。(髙松)

この3年間をふりかえって

○鑑賞は私にとってもう一度自分をみなおせることだと思う。今は勉強で大変だったり、習い事で忙しかったり、ずっと静かな時間を過ごすことがない。でも鑑賞している時は昔に戻ったような楽しい気持ちになります。なので私にとって鑑賞は昔の自分に戻れるとても大切な時間です。・・・美術館は外の雰囲気とはちがい、とても静かで少し緊張感があるところです。だから自分が素直になれるんだと思う。・・・私はこの2つ(鑑賞と美術館)をとおして自分に自信を持つことができ、今では発言も増えてきました。今はガチガチの生活の中にいるけれど、自分の中はこの3年でやってことがかたまらずに残っています。

SK・14歳

○・・・1つ確実なこと。それは3年間の活動の中でとても大切なものから目をそらそうとしていること。今もそう。絶対に正直じゃない。字がきれいなところは嘘をついているアカシ。どーでもいいことに目を向けて自分のことを嫌いになろうとしている自分がよくわかんない。もう何もわかんない。3年間っていったい何かな。今わかりそう。でもわかんない。この心境を楽しく、おもしろく感じれるときっとわかる。もっと時間をかけて、何年もかけてわかるようになった自分を見たい。もっと美術館の活動を続けたい。

MK・14歳

○今まで黙ってたけど私は鑑賞を「鑑賞」だとは思ってないし、正直「鑑賞」っていう言葉が好きじゃない。鑑賞=絵をみて言葉をひろわなきゃいけない。そんなのいやだ。書かないと他の人は分からないし先生だって授業にならない。そんなのわかっているけど今もその気持ちは変わっていない。絵をみて絵を感じる。私はそれが好きだ。・・・美術館は、う~ん、なんて言っていいかわからないけど一言で言うと「いつでも行ける場所」(逃げたい時、モヤモヤした時、何でもない時など)。この3年間で自分の気持ちを自分が受けとめてあげられるようになった。こんな感じ。

AI・14歳

○・・・60時間(5、6年生で鑑賞に費やした時間数)の間で私はすごい鑑賞のありがたさを感じました。鑑賞をしているとおちつく。他の授業みたいに正しいことを言わなければならないなんていう恐い気持ちもなく、少しずつ私を変えていってくれました。私は昔と比べるとちがう点があります。一番変わったのは「自分の気持ち」でした。発言、なかなか勇気が出ない・・・。何か間違ったことを言うとバカにされる・・・。そんなことも今はなく私らしく生活していると思います。やっぱりそれは小学校からずっと続けてきた鑑賞、美術館のおかげだと思います。今も昔のままだったらどんな生活を歩んでいただろう。そう考えると今の自分がとてもありがたく思えてきてしまいました。

NT・14歳

○鑑賞とは本当の自分をみつける旅かな?絵を鑑賞していると素直に自分が言いたいことが言えるし、学校みたいにしばられていると本当の自分が出せなて仮の自分が出ている。・・・5年生の頃美術館に初めて行った時は「やらされていた」が強かった。でもそれから美術館にいくうちに「自分から」の方が強くなっていき、絵をみているうちにだんだん素直に生きていくのが一番と気づいた。・・・5年のころは物事をテキトーにすごしていたし、人任せにしていて「ダメなヤツ」だったけど、鑑賞をとおして「素直に生きることの大切さ」がわかってきた。今もそのことを意識して生きている。

DH・14歳

○私にとっての鑑賞とは、生活の一部だなと思う。例えば授業中空を見ているとそこからいろんなことを思ったり。例えばリスを見かけた時、「あのリスはどこに向かっているのだろう。」とか・・・。鑑賞というのは絵だけじゃなくて、日常で思っていることすべてが鑑賞なんじゃないかな?と私は思う。

MT・14歳

○私にとっての鑑賞とは心の支えだったと思います。振り返ると(5年生の)最初の授業で「何を言っても正解(自分が感じてしまったことは全て正解)」と言われ、普段発言できなかった私も自分の意見を持ち発言することができました。鑑賞がなかったら今どういう生活をおくっているんだ!?って感じです。・・・(中学2年生の今)人には絶対に言えないストレスを抱えているけれどこのメンバーで鑑賞するとそんなことはふっとんでしまいます。だから鑑賞は私の心を支えてくれていると感じています。・・・中学の生活はとても気難しいもので、最初から受験がどうのこうのや友達関係がどうのこうのなどその中で心がゆれることが沢山あります。だから今の自分は強く変わっていると思いますが、さらに強くなっていかなければと色々な(美術館の)活動をさせてもらって感じています。

RH・14歳

○鑑賞をつづけて思ったこと。・・・もっと心のおくの方にしまわれている自分に気づく。それだけかもしれない。でも今、自分がどうなっているか、とかどう思っている、とかを知ることによって正体不明の疲れだったものが楽になるかもしれない。・・・絵は「見る」んじゃない。「みる」んだ。自分を「みる」。世界を「みる」。絵を「みる」・・・。小さな言葉の違いでも違っている。そんなうまく説明できるものじゃない。でも大きな違いはこれだ。

KS・14歳

○私にとっての鑑賞とは、「目の前にあるものをよくみる」です。鑑賞と聞くと絵や音楽など芸術作品を観て味わうというものを思い浮かべると思います。しかし、私が思う「鑑賞」とは、人でも何でもこの地球上にあるもの全てをみて味わうことだと思います。鑑賞って答えがないからどれをとるかは自由。人生だって分かれ目はあるけどどれをとるかは自由で答えがない。「鑑賞」って一生続いていって終わりのない最高の遊びとも言えます。

NA・14歳

○・・・他人の思いを読み取るにはまず自分がわからないといけないと思う。だから自分を見つめ、自分を知ることが鑑賞の価値だと思う。・・・鑑賞は自分の生き方も分かることができると思う。美術館は自分を見つめ直すためにあるのだと思う。

AN・14歳

○私にとっての「鑑賞」の価値。「鑑賞」をとおして見えてきた絵の裏側。その絵に込められた思い。また、「鑑賞」をとおして見えてきた自分の姿。その1つ1つを知れたこと。知ることができること。・・・私にとっての「美術館」の価値。なにかもやもやした時、自分をおちつかせることができる場所。静かな時間が流れている場所。なごめる場所。自分の存在を知れる場所。ひとりになれる場所。世界が違って見える場所。お気に入りの場所。「美術館」の価値=「自分」を知る場所

SK・14歳

<「鑑賞」「美術館」について>

ここは草原だ。どこまで行っても草原だ。でも前に進まなければならない。それは決まっていることなんだ。 俺は空を見ている。毎日毎日、たぶんずっと見てろって言われてもずっと見ていられるだろう。でもやっているのと、やらされているのは違うことだ。見ているのは誰だ。その眼は誰のだ。自分がやりたいからここにいるし、それを見ている。人のためにいるなら、そんなものに価値はない。

ここは草原だ。どこまで行っても草原だ。でも前に進まなければ何も起こらないし、何も知ることができない。ゴールのない草原は走る人もいれば歩く人もいる。でも前に進むのは同じだ。しかし、ひとりで行くのと二人で行くのとは全く違うことだ。人それぞれの道がある。あとをついていったら迷うことはないだろう。

しかし、道というのは自分が欲して初めてひらけるものだろう。

SM・14歳

鑑賞を柱にした学級経営 ~鑑賞の教育的価値~ (PDF)

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