蓮池通信
子ども×神奈川県立美術館・鎌倉館

神奈川県立近代美術館での活動6
2010年度4年2組

体育の授業においては、器械運動や陸上、ボール運動など指導すべき内容が明確に存在する競争型や達成型の領域と比較して、自由で創造的な領域である表現運動系は体育を専門とする教員でも試みることができない。その現状の中で、赤坂桂教諭は表現運動の楽しさを見つけようと、2009年に担任した3年生の子どもたちとともに取り組み始めた。

まず「模倣」から始まった表現運動の授業において、子どもたちはより抽象的なイメージの世界についても身体で表現できるようになり、感じたまま踊る楽しさを味わうことができるようになった。指導した赤坂教諭は、授業を重ねていくうちに表現する恥ずかしさが抜け、多様で個性的な動きが生まれていくこと、そして互いの表現を認め合っている児童の姿から、競争型や達成型の他領域にはない表現運動の魅力について感じ始めていた。赤坂教諭は、その後表現運動を学級づくりの柱とし、遠足で出かけた海岸で海をテーマに表現をさせたり、宿泊学習の体験について言語を使わずに身体で表現させたりするなど、体育科の授業以外でも積極的に表現運動に取り組み、子どもたちにとって学校生活の一部となっていった。しかし、子どもたちが自由な発想や多様かつ個性的な動きを生み出したり、ある程度まとまった時間継続した表現を展開したりするなど、学習の深まりという点で新たな課題が生じてきた。

そこで、図画工作科の授業において、低学年から継続的に取り組んできた美術作品の鑑賞と体育科の表現運動を関連させて指導することを提案した。そもそも表現するためには、その“動機”が必要不可欠である。表現運動の中に美術作品を取り入れることで、子どもから多様なイメージを引き出すことができ、そのイメージが表現運動の多様性につながる可能性があると考えた。また、低学年から言語中心の鑑賞に傾倒してきた子どもたちにとって、表現運動を介して美術作品と関わることで、そのよさや面白さを一層感じ取り、子どもたちはさらに美術作品に対して親しみをもてるようになるのではないかと考えた。

2010年6月〜『アートでダンス』

2010年6月12日から開催された神奈川県立近代美術館鎌倉の企画展『鬼と遊ぶ-渡辺豊重展-』にあわせて、渡辺の作品(複製)をもとに表現運動に取り組んだ。明快なフォルムと鮮やかな色彩を基調とした渡辺の作品から受ける多様なイメージから表現する必然性が生まれ、これまで以上にのびのびと動く子どもたちの姿が目立った。その後、子どもたちは自然と本物を前に踊ってみたいという気持ちになり、鎌倉館の協力のもと赤坂教諭と共に『美術館で体育』を試みることとなった。

<授業の流れ>

(1)作品を見て感じたままに動く

美術作品から感じたことを身体で表現するという新しい試みに、美術館の前に集合した子どもたちは「やってみたい」「表現できそう」「どんな作品があるのか楽しみ」とすでに意欲を高めていた。子どもたちには、まずひとりで気に入った作品を探し、その前で感じたままに動き、動きながら鬼の感情をについて考えるよう指示をした。

作品からイメージがわきどんどん動き回る子、絵の鬼と同じポーズをとる子、絵の前で考えこむ子など展示室に入った子どもたちの様子は様々であった。表現できない児童については作品の造形的な特徴からイメージが広がるような声かけをし、すでに表現を試みている子については感じ取った感情とその理由を造形的な特徴に絞って問い直していった。

(2)作品について話し合い、動く

作品の前に自然と集まった子どもたちでグループを構成し、感じ取った鬼の感情やその理由について話し合う時間を設けた。そして、お互いが共感できる部分からテーマとストーリーをつくり、実際に表現運動の作品をつくることを指示した。話し合いについては、作品に表現された形や色などの造形的な特徴を基に話すよう促した。また、実際に動きながら表現運動の作品に仕上げていく過程では、その動きと絵を照らし合わせながら、イメージと動きの一致を目指すことを伝えた。

ある女子グループは作品『おそいかかる赤』について、「赤は激しさを表している」「なんかすごく熱そう」「赤色はおそいかかってくるイメージ」「鬼が右から左の方向にまわっているようにみえる」「体がさかさまになっているからが苦しそう」などの意見から、「苦しみ」をテーマに鬼が赤色に襲われながらも立ち向かって勝利するストーリーをつくった。そのストーリーに沿って無表情で動いていた児童には、描かれていない顔についての問いかけをしたところ、「苦しそうな顔にしようよ」「回りながら表現した方がいい」「もっと飛び跳ねたりした方が苦しそうな感じが出るよ」などさらにお互いにアドバイスをしながら一つの作品に仕上げていった。

ある男子グループは作品『あふれ来るもの』について、「ものすごく強そう」「特に手が力強い」「黄色は雷を表している」「鬼の周りに描かれた線が怒りに見える」などの意見から鬼を雷の神様と見立て、「怒り」をテーマとしたストーリーをつくった。そして隣に展示されていた作品『雲をつかまんと』を鑑賞していた男子グループの背景の青色や模様から海や波をイメージし、人が海の鬼に襲われているストーリーに共感し、雷の神様が波に襲われている人を助けるために戦うというストーリーに発展させた。実際に表現する過程では、作品の中の特徴的な形や色と自分たちの動きを照らし合わせて、「もっと激しく動いた方がパワーが伝わる」「手にもっと力を入れた方がいい」などお互いにアドバイスをしながら一つの作品に仕上げていった。

(3)表現運動の作品を発表する

最後に、それぞれのグループが作品の前で完成した表現運動について発表する時間を設けた。そして、テーマやストーリーは公表せず、発表者は身体の動きで伝えようと努力し、鑑賞者は発表者の表現意図について考えながら見るように指示した。言語を使用しないことで発表者はより身体で伝えようとより感情を込めた動きとなり、鑑賞者もその意図を感じ取ろうと集中することができた。

発表後は、鑑賞者と感想を交流しながらテーマやストーリーの確認をしていった。授業後の感想には以下のようなものがあった。

「言葉だけよりも体で表現した方がどのくらいの気持ちかがわかる」

「鬼に近づいた気がする」

「ぼくにとって鬼とは自分の分身だと思います」

「鬼といっしょに遊んでいるみたいで楽しかったです」

「色がかわれば動きもかわってきました」

「私とおにの関係はライバルどうしです。なぜかというと鬼は動きます。どんどんかたちを変えます。ライバル同士なのでおにも私もあいてよりいいうごきをしようとします。だから私は絵よりもどんどんうごきます」

「私がおどった鬼とはとっても仲良くなれたと思います」

「絵の鬼と自分とはいきや心があっていると思います」

「時間があればもっと気持ちがわかっていろんな動きができたと思う」

「いつもの(言葉だけの)美術館より楽しかった」

以上の感想からは、言語活動を中心にした従来の鑑賞の授業に表現運動の要素を入れることで、(学習指導要領の)鑑賞の目標である「身近にある作品などから、よさや面白さを感じ取るようにする。」についてより効果的に達成できたといえる。

美術館で本物にふれた後、子どもたちは学校に戻って再び自分たちの表現について練り直した。完成した作品はお互いに鑑賞し、批評し合った。

映像1

映像2

映像3

映像4

<授業を終えて>

4年2組の児童は、3年生の頃から表現運動を継続して取り組み、表現運動の基礎的な技能については十分身に付けていた。しかし、赤坂教諭は児童の単なる模倣やストーリー性に乏しい動きに傾倒していた表現に課題を感じていた。しかし、美術作品を活用することで児童は自由にイメージを広げ、多様な発想や解釈から表現運動に必要であったストーリーが生まれた。そのストーリーに沿った表現運動の作品は1グループ約1~2分の構成となり、内容、時間ともに日常の体育の授業よりも幅が出た。この実践で手応えを得た赤坂教諭は、その後も美術作品を活用した表現運動の実践に取り組み、半年に及ぶ大きな単元学習にまで発展させている。そして、単元終了後、これまで美術作品や美術館を活用した鑑賞の実践経験がなかった赤坂教諭は、体育科の表現運動に美術作品を取り入れたことの意義について児童と授業者の両方の立場から以下のようにふりかえっている。

<子どもたちにとって>

◯「正解がない」こと

通常、体育の表現ではテーマがあり、具体的なモノを想定していく。激しい火山や嵐、動物などが例に挙がる。忍者ごっこにしてもその題材をどれくらい知っているか、想像できるかは子どもにも個人差がある。人生経験が少ない分、むしろ動きが広がらないこともしばしばある。「美術作品」を題材にするとどんな動きをしても雰囲気が伝わればいい、という覚悟ができる。なにせ大人でさえ「正解」がわからない。むしろ風景画のような具体が描かれているモノよりも抽象的な作品の方がおもしろい動きにつながるのである。「正解に近いか」を気にしなくてよいことは踊る恥ずかしさを取り払うのに効果的である。

◯「メッセージ性がある」こと

「美術作品」は観る者が感じ取る何かがある。素人には難解な作品でも写真や映像のような煩雑な、無駄な情報がない。色・フォルム・大きさ・・すべてがメッセージである。脳に直接届いてくる感じだ。美術作品からダンスを創る作業は「作品を模倣する」というより「感じ取った世界を踊る」というのに近い。なぜ赤いのか、なぜ丸いか・・・と感じ取った世界は自由で人それぞれである。

◯「時間」を創り出すこと

「美術作品」を身体で表現する決定的なおもしろさは「時間のずれ」である。作品を模倣すると静止した姿勢になる。ダンスはそこから動き出すことで始まる。美術作品が永遠の「瞬間」であるならばダンスはその瞬間の事前と事後を創作していくことになる。作者の意図を離れ、受け止めた鑑賞者による別の世界が誕生するのである。

<授業者にとって>

◯「多様な価値観」を受け止められる

鑑賞はまさしく人それぞれの感じたことが題材だから、どの子どものどんな動きもまずは認められるのである。感じ方は人それぞれだから「共感」と「違和感」が出現する。仲間と話し合う過程でお互いを認め合うことができる。友達のいおうとしていることを聞くこと、自分の中のもやもやした感じを言葉にすることなど言語活動も豊かになった。よくわからないことだから話し合うことが大切なのである。

◯「バリエーションの豊富さ」

当たり前のことだが無限に作品が存在する。いくらでもすばらしい世界が準備できる。それもまったく周りとの連続性を持たない独立した強烈な個性である。カルタ式にして次から次へと作品を即興表現していくような授業の場合、次はどんなものが出てくるのか、ワクワクする感覚をもつ。めくった瞬間、パッと見た目では理解できないぐらいのほうがおもしろいのである。

◯「ホンモノ」に近づけること

めったにできないことだが、美術館で作品を見て踊る機会を得た。惹きつけられる。身体に丸ごと入ってくる感じだ。コピーや複製でも授業は可能だが、ホンモノは違う(と思う)。その他の題材の例えば火山や宇宙や、忍者はホンモノに近づくことはできない。「美術作品」は目の前にすることができる。表現する対象物との距離感の違いが子どもたちの気持ちにも変化を与えるのである。

以上、赤坂教諭のふりかえりからは、美術作品を扱ったことで子どもたちの表現運動の作品が単なる模倣から表現へと深まったという実感が読み取れる。そして、子どもの立場からは、答えがたくさんある美術鑑賞だからこそ踊る恥ずかしさを取り払い、且つ多様なイメージが引き出せ、動きにも広がりが出たことを強調している。また、授業者の立場からは美術鑑賞の中で子どものどんな感じ方や考え方も認められることから学級の人間関係づくりへの可能性を見出している。そして、言語から得られたイメージを動きにつなげる従来の授業よりも、子ども自身が美術作品を直接見て感じることが意欲的に表現運動の作品に取り組むことにつながったことも実感している。図画工作科の表現活動も同様であるが、体育科の表現運動にも、表現である限りはその“動機”が必要である。日頃の体育の授業では、言語による発問や言語が書かれたカードを用いて表現運動に取り組んでいたが、やはりそこから表現への動機を得ることは難しいだろう。子どもが自分で何かを感じるということが意欲的に表現運動に取り組む契機となるのであれば、やはり美術作品の活用は有効である。(髙松)

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